大戦前に前夜とは言わない“大戦前夜”
米中の対立を軸とした今の国際情勢を、第一次世界大戦や第二次世界大戦の大戦前夜の世界情勢と比較させて論じる考察がよく見られるようになった。
確かに今の共産党中国の外交姿勢には尋常ならざるものを感じずにはいられない。自国のこと、もしくは自国であると主張していることに対する、他国や外部からの反対、批判、懸念、疑問、助言等あらゆるアプローチに対して『強烈な不満と断固たる反対』を表明し続けている。かつての“韜光養晦(とうこうようかい)”は影を潜め、大国のエゴとプライドを隠そうともしなくなった。まさしく“トゥキディデスの罠”に突入しつつある。
第二次世界大戦前のナチスドイツと世界の関係もそういった緊張の空気に支配されていたように、私の今知る限りのコンテンツからは感じられる。
1936年のラインラント進駐からオーストリア併合、さらにチェコスロバキアと続く領土的拡張の野心は共産党中国の描く“一つの中国”構想とデジャヴ的なオーバーラップシーンに見えてしまう。
新疆ウィグルの人権問題も同様、かつてナチスドイツが行ったユダヤ人迫害が国際社会から強い懸念や批判を受けつつもその全貌が明らかになるのは、ナチスドイツの崩壊によってであることを忘れてはならない。もしヒトラーがもう少し利口であんな馬鹿な戦争指導をしなければ、ジェノサイドは本当に達成されていた可能性が高い。
少なくとも習近平はヒトラーより利口だろうし、ナチスドイツやソ連の失敗は十分すぎるほど分析されている。“Hot War”になったとしても“Cold War”が続いたとしても自由主義陣営が今回も勝利するという保証は何もない。(大国の指導者でヒトラー級の馬鹿はトランプくらいだろうw)
そういった意味で今が将来の歴史学者たちから『大戦前夜』と分類される可能性はあるかもしれないが、実際には“ガンをつける睨み合い”が延々と続く可能性の方が高いと思われる。ちょうど相撲の立ち合い前の仕切りのような感じ。今の相撲では立ち合いの制限時間があってそれまでの仕切りでの睨み合いはお約束な感じだが、昔は制限時間などなく本気の睨み合いが続いて両者の闘気が熟した瞬間に自然と立ち会う(開戦する)のが相撲の姿だった。
決着がつくまで睨み合うというのは、戦争に至らない点では良いことかもしれないが、根負けしたら(目をそらしたら)負けという覚悟と根性が求められる。日本にその覚悟はあるだろうか?