やれるもんならやってみな2
~本気で宗教に対峙する覚悟ある?~

前回以降、旧統一教会への超法規的バッシングは続いている。それに対する懸念の声は「旧統一教会はカルトだから」で一蹴され、同調しない者はもはや『非国民』である。
「それならそれでいいんですよ。あの教団が壊滅するのを見てみたいのも確かです。でもね、先頭切って突撃している人たち『ふと振り向いたら後ろで応援し囃し立てていた人たちがいつの間にか消えていた』なんて事態には十分お気を付けくださいねw」
そもそもあの団体がカルトだと、だれがいつどのように決めたのか?前述の指定暴力団は都道府県公安委員会が指定する。オウム真理教及びその後継団体は公安調査庁の調査対象だがこれも行政手続きを踏んで決められている。紀藤弁護士だって「反社会的」とは言っているが「反社会」とは言っていない。「反社会的」と「反社会」は大違いである。(そういう点では彼はずるいよね)
「旧統一教会はカルトだ!」って「みんながそう言っている」って、そんなに容易く民衆に乗っかっちゃって大丈夫?あの気まぐれで移り気な民衆に…
行政の動きが鈍いのも頷ける。本腰を上げたとたんにあっさり飽きられて、後のケツフキをさせられたんじゃ堪ったものではない。
民衆もマスコミもこれまで見向きもしなかった己を棚に上げて、法的に何ら問題のない関わりを遡って悪魔の所業の如く批判する。(不思議なことにこれまでのところ違法性の指摘は全くないw)

まあこれ以上このことを論難しても仕方がない。
それよりもこのことを契機に、こういったことへの対応策をどう整えるか、問題のある宗教活動の規制方法を冒頭の論題に戻って考えてみたい。

今回の旧統一教会で言えば『信者から不合理な金銭を搾取すること』だが、宗教団体の問題活動は多岐にわたる。過去にはオウム真理教のように『教団のためなら教団外の一般人にすら危害を及ぼす』もあった。
アプローチとしては、『何か社会問題が起きてからその団体がカルトかどうか審査し認定すれば団体を処分する』という方法では被害を防止できないし合理的ではない。憲法上の“結社の自由”があるし、オウム真理教ですら破防法による解散命令が認められなかった。
それよりも『宗教の名においての活動を包括的に規制する』仕組みづくりの方が効果的であろう。たとえ宗教活動であろうと社会常識にそぐわないものは規制の対象にする。それにより被害を未然に防止できる。個々の団体ではなく活動を縛ることで不適切な教団を淘汰していくことができる。キーワードは「社会通念上」という法的表現と「マインドコントロール」という考え方である。
例えば旧統一教会の信者献金については、あくまでも本人の自由意志と信仰に基づいての献金であるが、それを「『宗教信者はその信仰に関して教団のマインドコントロール下にある』との前提で責任能力を制限し、(資産とか年収とかに対して)一定の基準を超える(社会通念上相当でない)支出には(仮に)配偶者や2親等以内の親族が取り消しを申し立てることができる。」といった規制をかければ救済することができる。
またオウム真理教のような信者による(信仰に関わっての)不法行為には、暴対法の使用者責任のように教祖や教団トップに民事上の賠償責任を問う仕組みを確立すれば極めて抑止効果がある。これは例えば霊感商法や悪質勧誘にも適用できよう。
大事なことはいちいち個々の教団を標的にするのではなく、宗教活動全体を対象として不適切な活動を規制することにある。それによって自ずと反社会的な宗教団体は退場せざるを得ない。
問題はこの方法は宗教界から猛反発を受けるということである。曰く「憲法で保障された『信教の自由』の侵害だ!」自分たちの既得権益に関わることには強烈な拒否反応を示すだろう。宗教を怒らせたらどうなるか?年配の方々は京都の古都税騒動を覚えているだろうか?
因みに『信教の自由』は憲法20条の条文上は(解釈はともかく)個人に対してのみ保証しており「宗教活動の自由」に対する記述はない。

古都税問題にも絡むが、そもそもなぜ宗教活動は非課税なのか?日本のすべての宗教活動にそんなに高い公益性を認めるのが本当に妥当か?少しでも課税できれば我が国の税収は大助かりである。たかが消費税1%に汲々としている人々や大声を上げている政治家はなぜこのことに目を向けないのだろうか?(政治家が見ないふりをしている理由は大体察しが付くw)さらに言えば、納税義務を課すことで経理面からも宗教団体をサーチすることができ問題があれば早期に対処することにもつながる。

さてここまで宗教活動を論じて、一つ見落としている宗教団体がある。その宗教は頑なに世俗化を拒み、外部からの客観化や批評、特に宗教シンボルへの揶揄やいじりに強烈な攻撃性を発揮する。その宗教シンボルを題材として扱った表現作品に対して指導者は殺害を宣言し、実際にその作者は襲われ、また関係者にも危害が及び殺害された者もいる。またあまつさえその宗教をパロディの題材にしたマスコミは襲撃され多くの死者を出した。これだけでもうオウム真理教も真っ青なカルト宗教とされても仕方がない。これに比べれば旧統一教会など可愛いものである。
でもこの宗教には誰も手出しができない。でかすぎるし、本気で立ち向かったら命の保証がない。『命あっての物種』とはまさにこのことである。

ということで、いま旧統一教会問題でわあわあ騒いでいるマスコミや民衆は本当に宗教に手を突っ込む覚悟があるのだろうか?せいぜい旧統一教会を血祭りにあげて溜飲を下げて終わりが関の山というところか。
しかしそれでは宗教のやりたい放題のこの国の問題は一向に変わらず、同じことが繰り返されるのは目に見えている。
政治が解決すべきなどと期待してはいけない。政治家は自分が選挙で落とされること、つまり本当に民衆が本気で要求することにしか応えない。ワイドショーで騒ごうが国会前でデモをしようが、蛙の面に○○である。(政治家が何をおいても経済対策に本気になるのはそのためである)

つまり民衆が本気で「この国の宗教活動に規制をかけねば!」と決意して政治的ムーブメントを起こし、選挙の時の判断材料の1位にするくらいにならないと、怪しげな宗教の脅威がなくなることはない。

まあでも人々はそんなことは望まないだろう。基本的に民衆は宗教が嫌いで煩わしいと思っており、宗教が自分から遠くにいてくれればそれでいいと思っている。(逆に言えば今回人々が大騒ぎしているのはこの問題が自分の身近に近づいたからに他ならない)
だから宗教が遠くにいる分には無関心でいられる。そしてこの状態が維持できるなら、どこかで頭の運の悪い誰か他人が悪徳宗教の餌食になったとしても自分の平穏のためのコストとして許容できるのだろう。

それはあたかも草原のシマウマが、時々ライオンの餌食になりながら自分が無事なら平気でいられる、決して力を合わせてライオンに立ち向かおうなどとしない自然の摂理とよく似ている。

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