旧統一教会騒動に思う
~やれるもんならやってみな~

衝撃的な安倍晋三元首相殺害事件からはやふた月、世間はというよりマスコミは相も変わらず『世界平和統一家庭連合(旧統一教会)』のネタで大騒ぎしている。(論点をクリアにするためここでは今後この団体を『旧統一教会』と表現する)でもその論旨は極めて感情的で全く論理的ではないとしか思えない。

そもそも今回の事件に関連しては、ポイントを明確に分ける必要がある。
1.安倍元首相殺害事件での旧統一教会の責任の有無
2.旧統一教会の信者への活動内容に関する是非の問題
3.旧統一教会の政治活動の是非の問題

1.については旧統一教会には何の責任もない。少なくとも法的には何ら責任を問われない。“道義的”云々を持ち出されようが、因果関係的にも「旧統一教会が悪いから安倍元首相が殺された」は成り立たず、今のマスコミのヒステリックなまでのバッシングは理性を失っていると言わざるを得ない。
身内の信仰で人生を破滅させられたと思い詰めた一人の人間が、自暴自棄になって凶行に走ったというのが実態で、それは繁華街での無差別殺人や公共交通機関での破壊行為、その宗教団体への自爆突撃だったかもしれない。(実際それも考えていたらしいが)
事実マスコミも山上容疑者の「安倍元首相が旧統一教会に関係があると思いターゲットに選んだ」という供述は慎重に是認していない。にもかかわらずそれがあながち間違いでもなかったことを連日の報道で狡猾に示唆してもいる。
現象的には安倍元首相はテロに遭ったのではなく、暴漢に襲われての落命ということになる。
しかしながら旧統一教会に恨みを持ち、教団を潰したいと願っていた山上容疑者にとっては、今の旧統一教会を反社会的集団と見なす社会の流れと、恐らくこの後始まるであろう警察の意趣返し的な徹底取り締まりは望み通りの展開であり、彼は目的を達成したことになるだろう。
その意味では旧統一教会へのテロとしては大成功である。

2.について、旧統一教会が信徒から金をむしり取るあくどいやり口は批判されて当然である。ただし今声高にあげつらうマスコミは、逆に今まで気にも留めていなかった自分たちについても総括すべきである。(少なくとも多分ここ10年は大きく取り上げられた記憶はない)にもかかわらず過去に遡って少しでも接点のあった政治家を鬼の首でも取ったかのようにほじくり返して批判するのは「よくもまあ恥ずかしげもなく」と呆れるしかない。
確かに旧統一教会は社会の秩序を乱し人々の安寧を脅かす存在かもしれない。しかしそれのみを批判し排除しようとするのは、他の宗教団体を問題なしと追認するのと同義である。そして飽きが来れば呆れるほどあっさりと忘れ去って放置し、また何かあったら大騒ぎを繰り返す。
かつてはオウム真理教というカルト教団が大事件を起こした。ほかにも人々が胡散臭く怪しげに感じる宗教団体はいっぱいある。(例えば白装束とか、足の裏とか、○○させてくださいとか、アニメを作るとかetc.)
この国では、宗教への無関心さが反転して、宗教の名のもとの活動には皆及び腰でアンタッチャブルになるのが現状で、「信教の自由」を持ち出されると公権力でさえ二の足を踏んでしまう。

3.については合法であり、全く何ら問題はない。宗教団体に限らず、法人結社団体が自己の利益のために活動するのは当然で、そこには政治活動も含まれる。宗教団体の政治活動を問題視するなら創○学○は大問題である。(笑)
また支援された政治家が支援者に(違法でない)便宜を図ったりお付き合いをしたりするのも当然で、それが問題なら企業も経済団体も労働団体も市民団体も問題だらけになる。
なので、マスコミが何を問題視しているのかの論拠がさっぱり理解できない。唯一そういった関わり自体が法的に規制されるのは暴対法の『指定暴力団』で“反社”とは付き合いそのものが厳しく制限される。(“反社”と関わって数多の芸能人が消えていったのもご存じの通り)しかしこれは厳密に法律で定義されていることで、もちろん旧統一教会は『指定暴力団』ではない。それをあたかも“反社”のごとく扱い少しでも関われば“黒い癒着”として批判する姿勢はもはや『俺が法律だ!』の傲慢さで恐怖すら覚える。
今この文章を書いているとき、旧統一教会が日本テレビの『24時間テレビ』へのボランティア支援を暴露したらしい。それに対する日本テレビの反応は「ボランティアの思想信条までは把握していません。」だと…。「どの口が言う?」「『全社を挙げてこれまでの関わりを調査します。』とは言わんのかーい?」絵にかいたようなダブスタですね。(笑)これでマスコミが腰砕けになったらもっと笑うけど。

上記のような論点で今の報道に疑問を呈しているコメンテーターもいるが、寄ってたかってバッシングされているのが現状らしい。本当に“民意”には恐れ入るほかない。
「お前は旧統一教会を擁護するのか?」って?とんでもない!日本人として常々苦々しく思っていたし、これを機に潰れたらいいのにと願っている。
だがそれよりも「そもそも宗教活動の内容を規制する仕組みづくりをいい加減考える必要があるんじゃない?」と言いたい。
これまで「信教の自由」の名のもとに如何に問題のある宗教活動が横行してきたことか?こんななんかあった時にだけ大騒ぎして、そのうち飽きて忘れての繰り返しをするんじゃなくて、宗教活動自体への法規制「宗教活動規制法(仮称)」のような包括的ルールを作る根性はないのかということ。
なぜできないか?それは“民意”が宗教に無知だから。知らないから自信がなくてよう触れない。「はい論破!」されちゃうと恐怖している。情けない。

その意味での「やれるもんならやってみな」で、次回はその内容と本当のカルト宗教について考えてみたい。

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