我流宗教論

世は無神論、無宗教がスタンダードなようである。その一方で旧統一教会のようなアレな宗教に搦めとられて人生アレしちゃう人も後を絶たない。
私の感覚的には、宗教や信仰に対しての知識に乏しくいわゆる無垢な人が多すぎるのが問題なように感じる。免疫を持っていないのでスピリチュアルがツボに入るとコロッと行っちゃう。オウム真理教でも東大や京大の学生が麻原彰晃にアレされている。
私の家族(妻や子たち)もほとんど興味関心がないが、私の影響で少しは免疫はあると思う。ある程度宗教の知識を持っていた方が大やけどをしないで済むのは確かなようである。
今回は私の宗教観信仰観を簡単にまとめてみたい。本来の教義等とは違う点も多々あろうと思うので予めお断りしておく。

【信仰】別に熱心に宗教活動に参加したり、布教にいそしんだりすることはない。一方で代々浄土真宗の門徒である。家に仏壇があり代々墓を持ち檀家をしている。檀家寺のご住職に月参りに来てもらい、年に数回は墓参り(車で1時間の距離)に行き、親の法事をする。自分的には信仰のある層の中では一般的な範囲内だろうと思っている。
その私が感じるのは、信仰に出費することを「馬鹿じゃねぇの?」と捉える層を理解しがたいという感覚である。旧統一教会のように全財産を搾取するのは論外にしても、信仰はそこそこの出費を伴う。
私の場合、月1~2回の神棚仏壇のお花代、月参りのお布施、お寺の年会費と年数回のイベント(永代経、報恩講)へのお布施、墓参り代(お花やお供え)また地元の祭礼への寄付等を考えると年に10万は優に超え20万には満たずというところだろうか?
以前何かのアンケートで「宗教関連の出費が年に1万円未満」の層が多数いることに驚いたことがある。仏壇もお墓もなければそんなものかも知れないが、そういう人に限って心が弱っているときに「あなたが幸せになれないのは…」と魔の手が忍び寄るものである。
何の信仰もしていない人々が「非常識」と感じる寄付額の基準はいくらくらいなのだろうか?因みに私の親は檀家寺の改修時に50万円の寄付をしたことがあるし私も地元神社の山車の改修時に10万円を寄付したこともある。これらは非常識なのだろうか?

【南無阿弥陀仏】私の属する浄土真宗は簡単に言えば「ナムアミダブツと唱えれば極楽往生できる」というとってもチートな教えである。まあ外の人から見れば「そんなわけが…」と嘘臭く感じるのは当然かもしれない。これを私は次のように理屈付けしている。
教義的には阿弥陀如来の本願(誓い)によってすべての衆生(人々)が極楽(悟りを開くための楽園)往生(生き返り)できるというものである。ただこの阿弥陀如来はインド仏教のアミターバ(サンスクリット語)の方便だといわれている。方便とは(「嘘も方便」などと言われるが)抽象的な概念などを理解させるために○○仏のように具体的実体に投影する仏教的手法である。
このアミターバとは「あまねく光」の意で、遮るもののないあらゆるものを照らす光と思えばよい。そして「そんなものがある」を根本定理として理論を展開すると「阿弥陀様の本願」という現象が現れる。
これはちょうど「光の速度は有限かつ不変」を根本定理とすれば「光速に近づくと時間が遅くなる(浦島効果)」とか「光速に近づくと長さが短くなる(ローレンツ収縮)」といった不思議な現象が起こる「相対性理論」と同じだと考えればよい。まあ物は考えようである。

【他力本願】浄土系の宗派では他力本願(阿弥陀如来の本願による救済)をメインとして、(修行や功徳による)自力救済に(否定とはいかないまでも)重きを置いていない。教義では「人のする努力は仏の視点から見ればほとんど差のない微々たるもので仏様からの引き上げこそ悟りへの道である」と説いている。これは「地球は宇宙から見れば丸い天体であり表面の多少の凹凸はほとんど感知できずましてや人工物の凹凸は無きに等しい」と考えれば分かりやすい。
だとすると信心などあろうとなかろうと阿弥陀様が助けてくれるのだから信仰など無意味だという理屈になる。
しかしここで「信仰=ベクトル」と考えよう。ベクトルとは向きと大きさを持つ数学的量である。人が悟りを指向するなら悟りに向けたベクトルを持つ。その大きさはその人の努力によるが先述のように他力の教えではその大きさは微々たるものだとされる。そして阿弥陀様が無限倍することでそのベクトルを悟りの域まで導いてくれる。問題はそのベクトルの向きが悟りを指向しているかどうか、向きがマイナスを向いていれば無限倍しても悟りには至らない。その向きこそが「南無阿弥陀仏」であり「いわんや悪人をや」と言うことなのだろう。

【凡夫ですから】昔、高倉健が「不器用ですから」とつぶやくテレビCMがあった。(健さんが言うとめっちゃ渋い)
私の信仰はかなり我流で浄土真宗の専門家(僧侶)からはかなりダメ出しを食らいそうである。ましてや他宗派からは折伏どころ満載だろう。ただ何を言われても「凡夫ですから」と答えれば良いと思っている。凡夫とは迷い多き衆生であり過ち惑う存在、だからこそ阿弥陀様の本願におすがりするのみ、そう開き直ることが自身の信仰的芯棒だと考えている。

【純化と一般化】無神論だ無信仰だという人に限って新興宗教にハマっていくという話は結構あるように聞く。その一方で(私の属するような)既存の大教団に(家とは関係なしに)全く新たに入信するという話はあまりイメージし難い。キリスト教や創価学会のようにリクルート(布教)に熱心なところは成果を上げているし、イスラム教も拒否反応を示される反面新鮮な信仰として受け入れる人も少なくない。
これらの差は何なのだろう?思うに宗教とは(教義と言う名の)思想の共有である。そのため始まりはとてもピュアな思想も時を経てより多くの人に受け入れられるために、徐々にマイルドで最大公約数的な柔らかいものに変質していく。仏教も本来の『悟りを開いて解脱する(仏になる)』というムリゲーにどんどんチート技を開放してきた。今や日本では僧侶も(般若湯という名の)酒を飲み(お上が認めたので)妻帯もお構いなし。一般的な宗派では普段の生活にほとんど何の制約もない。これは逆に外の懐疑的な目からは「堕落した、薄汚れた、手垢のついた」宗教に映るのだろう。そうなると制約の多い排他的な宗教ほど純粋な魅力ある教えに見えてくる。イスラム教などは新興でないものの多くの制約を頑なに維持している。断食月(ラマダン)、豚食の忌避、食事制限(ハラール)、禁酒、女性のヒジャブ等々、それが今から何かを信じようという人々にはピュアに映るのだろう。
しかし一般化は合理的なプロセスでもある。少し脱線するが、ラマダン期間中は日中の飲食をしてはならない。ならば極地方で白夜の人達はどうすればよいのか?かつてはイスラム教の分布範囲はせいぜい中緯度までだったろうがいまやグローバルの時代である。ましてやムスリムの宇宙飛行士はどうするのだろうか?思想の一般化とはそういうことである。
ピュアな宗教に魅力を感じる時はよくよく考えるべきである。もっともピュアな信仰はキルケゴールの言う「単独者としての神との対話」であるが人々はそんな孤独には耐えられない。伴走者を求め思いを共有して苦しみを軽減しようとする。それが宗教の始まりに他ならない。どの程度純化されどの程度一般化された教えを拠り所にするのか?自分の中での落としどころこそが宗教感覚だということを認識する必要がある。

【宗教教育と哲学教育】現代社会は本当に仏教に限らず新興を含めた様々な宗教が飛び交う魑魅魍魎空間である。そして人はなにがしか心が弱まるタイミングが訪れるものであり、自分の中に信仰的芯棒がないと本当に人生危うくする危険を孕んでいる。
信仰を持てとは言わないまでも、何らかの宗教的免疫は生きる上でのマストアイテムだろう。そのためには最低限の宗教的教養(知識と理解)を持つ必要がある。信仰心がないのと教養がないのは全く別物である。
その意味で長らく教師をしていたが、公教育で宗教教育をタブー視する風潮には本当に危惧するものがあった。もちろん特定の宗教を推奨するのは論外にしても、宗教とは何か?どんな宗教がありどんな教義を持っているか?といった基礎知識は中学生までに教えておいた方が良い。さらに言えば中学校で哲学を学ぶべきだとも思っている。答えのない“なぜ”を考える力は信仰においても自分を見失わないための大切な拠り所になる。
もっとも今の道徳授業だけでもアップアップしている多くの教師には荷が勝ちすぎる要求ではあるが。

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