百万の白石と百万の黒石
経済学の理論が破綻することがある。こないだのリーマンショックがそうだし、前にはLTCMの破綻なんてのもあった。
リーマンショックでは、CDSなんていうデリバティブ商品が発端だったが、それは最先端の金融工学が編み出した夢の商品だったはずである。
LTCMだってFRBの元副議長やノーベル経済学賞の学者を擁して「ドリームチーム」なんてもてはやされて当初は大もうけだったのに失敗した。
完璧な理論のはずがなぜうまくいかなくなるのだろう。
それは経済学などの社会科学が「有限な社会」を対象にしているからだと言えるんじゃないかな?
理論はもともとその対象の認識から始まる。自然科学の対象は基本無限と考えていいし、社会科学の対象「人間社会の営み」だって十分大きくて無限と近似できる。
例えば「百万個の白石と百万個の黒石の入ったプールから白い石ばかりを取り出す方法」なんて理論を編み出したらどうだろう?金融工学は実はそんな性質を持っている。
10個程度なら完璧に成り立ってノーベル賞を貰えたりする。ところが現実社会の人の欲には限りがない。
白い石ばかり100個取ろうとする。それは千個になり、一万個になり際限がなくなる。ところがそうなると白石黒石のプールの様子が変わってくる。その理論でも百万と一個の白石を取るのが不可能なのは分かるはず。
そして最後は破綻する。それが10万個目なのか20万個目なのかそれとも30万個まで持つのかは誰にもわからない。結局はババ抜き、チキンレースの世界になってしまう。
人の世は人の営みからは逃れられない。探求が進めば進むほど、それによって変貌し、また新しく規定される。その繰り返しなんだろう。